無難と有難どちらを生きるか?有難な人生、それはつまり…

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無難な人生って良いのだろうか?幸せと言えるのだろうか?

有難な人生になってしまったときにどう考えたらいいのか?

有難な人生って好んで選択するものなのか?

この世で、何もかもが満足という人はいないでしょう。分別がつくようになった人は、上記のような疑問を持つときがくるものです。私は、「ありがとう」が「有難う」であり、「難が有る」と書くことの意味がわかって、考え方が変わるようになりました。

ただ、人間深く感動してもそれが薄れていくもの。最近、改めてそれに関するある記事を読んで、初めて知ったときとはまた違った感慨になりました。人って、その時々で受け取り方は変わりますからね。

ネットで調べてみると、ゴルゴ松本さんが「あっ!命の授業」という番組でそれを話しているようで、「多くの方がそれを知っているんだなあ」と思い、嬉しくなりました。

「難が有る」ってことは、困難が有る、災難が有る、苦難が有るっていうことですから有難くないのですが、その有難くない状況が「ありがたい」ということです。

難がなく生きることは、楽しいことなのか、嬉しいことなのかと言われたら、難があるよりいいよね、と普通はなります。確かに世の中、「無難な人生がいい」っていう人もかなりいると思うし、私だって好んで有難な状況にはなりたくないです。

しかし、もう少し俯瞰して人生を人の成長という視点で捉えると、有難の只中にいるときは本当に大変でも、乗り越えたときは確実に人として成長していると思うわけです。だから「有難い」なんですね。

冬の厳寒の日に、こたつの中から好んで厳寒の外の世界に出たくはないですが、厳寒の中にいる人は、その中で心地よさを感じることもあります。有難について少しでもそう考えられるといいと思います。

でも、普段使う「ありがとう」って、ちょっとだけこうも考えられます。

人に対して「ありがとう」っていうとき、「難を与えてくれて感謝します」っていう意味になるんだけど…って。まあ、言葉は転じていくので、もとの意味はそういうところから出た言葉だけど、本当に感謝の意を表す言葉が「ありがとう」なので、そんなふうに考える必要は全くないですけどね。

この話は、続きがあります。

まずそれには、人が死んだらどうなるのかという話をしておく必要があります。「死んだら肉体がなくなって、やがて骨も朽ちてその意志も消滅する」と思っている人は、日本人にどれだけいるでしょうか。外国人には少ないと思いますが、日本人でそう思っている人でも、実は死後も存在することをどこかで思っているはずです。

これってなぜなのかを書くと長くなってしまうので、それは読んでいる方の思いに任せます。また、宗教とかも絡んでくるので、ここではそんな話をするために書いているのではありませんので、話を戻します。

 

「生前は主人がお世話になりました」と言いますが、これって死んだ人のことを言うときに使う言葉です。「生前」とは生まれる前のこと。つまり、死後の世界のほうが本当の世界で、現世は死後の世界に生まれる前だということです。現世は「現し世(うつしよ)」って書きますから、死後の世界を現しているということになります。

ということで、死んでからの世界が存在すると考えて続けます。

「死んだ人はあの世で、現世で困難があったことを尊きものだったと誰もが思う」そうです。

これを見たときに、有難に対してよりポジティブに考えられなれるようになりました。死後のことはよくわかりませんが、希望が持てるのではないでしょうか。

また、「死ぬまでに何かを成し遂げたことより、困難を何回乗り越えたかのほうが値打ちがある」ということも見ました。

これも、さらにさらに有難をポジティブに考えられる言葉だと思います。有難を、悩んだり不幸だと思わないことですね。よく、神様(これもいらっしゃるという前提です)は乗り越えられる困難しかその人に与えないと言いますからね。神様の大愛と考えると、世界が明るく感じられるようになりませんか。

私が死ぬまでに、あとどれだけ有難な出来事があるかわかりませんが、「有難に立ち向かわなければならない」という悲壮感よりも、「ありがたいことだ」と少しでも多く感じて乗り越えていけたらと思います。

ただし、最初の3番めに掲げた「自ら有難を選択する」ことは、なかなか私には難しいことです。自身が考えて頑張れば乗り越えられそうな困難は、ちょくちょく設定しているのが現状の私です。