パリ…山手線の内側の面積より少し大きいくらいの面積で、セーヌ川中流のシテ島を中心に同心円状に広がるフランスの首都。「花の都」、「芸術の都」と呼ばれて、芸術、ファッションの中心地ですね。
この記事では、「パリの美」と「パリの謎」について掘り下げてみたいと思います。
パリの美・パリの謎~凱旋門・コンコルド広場・オペラ座・モンマルトルの丘~
パリの「美」については、パリジェンヌも美しい方が多いですし、最先端のファッションも美の象徴でもありますが、ここでは有名な「凱旋門」、「コンコルド広場」、「オペラ座」、「モンマルトルの丘」について、そしてその「謎」についてまとめます。
パリの美~凱旋門・コンコルド広場・オペラ座・モンマルトルの丘~
凱旋門
ナポレオンがアウステルリッツの戦いに勝利したことを記念して建築が始まったと言われる凱旋門。あの有名な凱旋門の他に、パリの市内のすぐそばのチュイルリー公園のルーブル美術館側にもうひとつの凱旋門があります。
普通に凱旋門と言われている方は、シャルル・ド・ゴール広場にあって、「エトワール凱旋門」と言います。対して、もう一つの凱旋門は、「カルーゼル凱旋門」と言います。ナポレオンは、カルーゼル凱旋門が小さかったために、世界最大のエトワール凱旋門を作るように命じたそうです。
「エトワール」(星)という名前は、ここを中心に放射状に通りが延びているのが、上空から見て星のように見えるところからついたそうです。
*カルーゼル凱旋門
コンコルド広場
出典:https://kubogen.com/より
パリ中心部のチュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれたコンコルド広場。オベリスク(記念碑)が建っているパリ最大の広場です。そのオベリスクは、1836年にエジプトのルクソール神殿から運んできたクレオパトラの針だそうです。
当初は、ルイ15世の騎馬像があったため、「ルイ15世広場」と呼ばれていました。その後、「革命広場」と改名されましたが、フランス革命中はこのコンコルド広場が処刑場となっていたため、1795年に「調和」の意味を持つ「コンコルド広場」に変更されました。ルイ16世やマリー・アントワネットもこの広場で処刑(斬首)されています。ここでは数千人とも言われる人たちがギロチンにより処刑されている残虐な歴史の場でもあるのです。
オペラ座
出典:https://paris.navi.com/より
歌劇場である「ガルニエ宮」はオペラ公演が行われており、「オペラ座」の名のほうが有名です。ただ、ガルニエ宮は1975年完成していて、その後、1989年にオペラ・バスティーユが新たに完成しています。ここでは、バスティーユ・オペラ座、新オペラ座と呼ばれていて、単にオペラ座とは言わないそうです。
ミュージカルや「オペラ座の怪人」でお馴染みですが、晴れの舞台や怪人が住む地下
の大水路などを備えたパリ・オペラ座は、約350年前のルイ14世の時代に設立されています。
設立の経緯として、ナポレオン3世は、新オペラ座のために、建築デザインコンペの公募をすることを発表しました。 応募期間は1か月で2段階の選考が行われました。そのとき、シャルル・ガルニエの計画は第一選考に出された170の案の1つでした。そして、ガルニエは第2次選考の7人に残りました。
第2選考ではオリジナルの計画の速やかな修正と一層の厳格さが求められました。ガルニエの計画は、「その、計画の美の配置における、たぐいまれにして傑出した質とファザードとセクションの記念碑的かつ特徴的な様相(アスペクト)」によって選ばれたそうです。
モンマルトルの丘
出典:https://trippedia100.com/より
モンマルトルの丘は、パリの中で最も高い場所です。かつては「殉教者の丘」と呼ばれていたモンマルトルは、古きよきパリの面影を強く残す場所にもなっています。ブドウ畑と麦畑が広がる中に風車が点在するだけの農地だったために、ゴッホ、ピカソ、ユトリロといった画家が集まっていたと言われています。
モンマルトルの丘には、サクレ・クール寺院がありますが、19世紀に入ってから建てられました。その理由は…
1870年に起きたプロイセン(ドイツ)・フランス戦争でフランスは負け、翌年、不満を募らせたパリ市民により自治政府「パリ・コミューン」ができます。これを鎮圧するため、フランス政府軍が出動する事態となり、3万人以上の犠牲者が出たと言われています。多数の死者が出たこの戦いは、セーヌ川が赤く染まった「血の一週間」と呼ばれています。
サクレ・クール寺院は、この犠牲者を弔うことを目的に建てられたそうです。パリ・コミューンに参加した多くの人が最期を迎えた場所であって、古くから「殉教者の丘」として知られていた、歴史的、宗教的に特別な場所だったから、ここが選ばれたそうです。
最後は、パリの謎についてです。
パリの謎「パリ・エジプト化計画」
出典:http://megmir.blog24.fc2.com/より
エトワール凱旋門からシャンゼリゼ通りを下り、コンコルド広場からカルーゼル凱旋門を経てルーブル美術館までの直線をパリの歴史軸と言います。左に6度軸がずれているところがエジプトのルクソール神殿からカルナック神殿までの配置とほぼ一致するそうです。さらには、南東側で川に接し軸が東西方向に伸びていること、コンコルド広場のオベリスクの位置がルクソール神殿のオベリスクの位置と同じであること、そして二つのオベリスクはかつて同一のところに対になって立っていたものであるであることなど、一致するところばかりです。実際、平面図を重ね合わせるとピタリ一致するようです。
ナポレオンは、ジョセフィーヌ(後の皇后)との出会いが影響して、エジプトに興味を持ったそうです。そのジョセフィーヌは、当時流行していた秘密組織フリーメーソンの一員で、そのフリーメーソンはピラミッドにはパワーが宿っていると信じていました。秘密結社が深く関わっていたということです。パリでは、ナポレオンのエジプト遠征により、当時空前のエジプトブームを起こしたようです。アラブの文化、芸術、ファッション、学問などあらゆる分野に広がる大ブームだったそうです。
このように、ナポレオンはパリを「エジプト化」しようという壮大な計画をしていて、その名残が上記のような部分に現れているのですね。
様々な歴史があるパリ。人々も様々な思いでパリに訪れるのでしょう。ちなみに、2019年2月23日(土) のブラタモリでも「パリの美」の特集をすると知りました。少し前は「ローマ」をやっていたと思います。知らない間に、日本から世界にいってしまったようですね。楽しみに見てみたいと思います。