玉城知事は政府批判も安倍首相は?沖縄慰霊の日 追悼式【動画】あり

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6月23日は、太平洋戦争末期の沖縄戦の犠牲者を追悼する「慰霊の日」です。平和祈念公園にて、県と県議会主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行われました。

 

 

沖縄慰霊の日 追悼式 安倍首相もあいさつ 人々は魂魄の塔で祈りを

 

 

沖縄慰霊の日 追悼式 玉城デニー知事 安倍首相首相あいさつ

 

 

戦争を知らない戦後生まれの国民が8割になった現在の日本。痛ましい戦争の教訓を風化させることなく、記憶を継承することが求められています。

追悼式は、沖縄県遺族連合回の宮城篤正会長の追悼の言葉から始まりました。

その後、玉城デニー知事の「平和宣言」を読み上げられました。以下、宣言内容を抜粋させていただきます。

 

「県民は想像を絶する極限状況の中で、戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。」

「人間が人間でなくなる戦争は、二度と起こしてはならないと決意を新たにするのです。」

「県民の願いである米軍基地の整理縮小をはかるとともに、県民生活に大きな影響を及ぼしている日米地位協定の見直しは、日米両政府が責任を持って対処すべき重要な課題です。」

「国民のみなさまには、米軍基地の問題は沖縄だけの問題ではなく、我が国の外交や安全保障、人権、環境保護など、日本国民全体が自ら当事者であるとの認識を持っていただきたいと願っています。」

「県民投票の結果、圧倒的多数の県民が辺野古埋め立て反対していることが明確に示されました。それにもかかわらず県民投票の結果を無視して、工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をもないがしろにするものであります。」

「沖縄県との対話による解決を強く要望します。」

「対話によって、この問題を解決してまいります。」

 

平和宣言の際には、参加者から何度も共感の拍手が起こっていました。

 

その後、来賓あいさつとして安倍首相が登場しました。以下、抜粋させていただきます。

 

「沖縄戦において戦場に倒れた御霊、戦火にあわれ亡くなわれた御霊に向かい、謹んで哀悼の真を表します。」

「戦争の惨禍を二度と繰り返さない、この誓いは令和の時代においても決して変わることはありません。」

「沖縄の方々には、長きに渡り、米軍地の集中による大きな負担を担っていただいております。この現状はなんとしても変えていかなければなりません。政府として基地負担の軽減に向けて、1つ1つ確実に結果を出していく覚悟でございます。」

「私が先頭に立って沖縄の振興をしっかりと前に進めてまいります」

 

あいさつの途中では、参加者から批判の声も聞かれました。

 

一連のようすは、以下の動画で確認してください。

 

追悼式 あいさつ・平和宣言 参列者の献花のようす

 

 

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「魂魄の塔」について

 

 

1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は、日本軍との交戦を続けつつ、生き残った住民を保護し、難民収容所へ入れていきました。

保護された住民は自由に難民収容所から出ることができませんでした。

米軍の基地建設を進める中、住民たちは家族の生死や行方もわからないままに難民収容所を転々と移動させられました。

家族・財産・食糧・衣服などすべてを失った村民は、戦後の破壊し尽くされた土地で、食料の生産が必要でしたが、頭髪や皮膚が付着したままの遺骨の許可がようやく下りてから収骨に取りかかりました。

拾われた遺骨は米須原の南側に積み上げられていきました。

村長は米軍からセメントと鉄筋代用の寝台の枠などを譲り受け、周辺から石灰岩を拾い積み上げ骨塚が作られました。

こうして、住民の手によって建立されたその慰霊碑は「魂魄の塔」と名づけられました。

「魂魄の塔」に眠る遺骨は、すべての方が身元不明者です。

沖縄戦で身内を失った者にとって、「魂魄の塔」は家族の墓と同じ意味をもっていると言います。

実は、復帰後の1979年2月に「摩文仁の丘」に国立戦没者墓苑が建立され、遺骨の殆どがそこへ移されたため、現在の「魂魄の塔」には、わずかな遺骨しか残っていません。

しかし、それでも「魂魄の塔」に花を手向け、お酒やごちそうを供え、亡くなった家族の冥福を祈る遺族の姿が毎年見られます。

6月23日「慰霊の日」は、遺族のみならず、関係者が絶え間なく訪れます。現在に至るまで、県内外から多くの参拝者が訪れる他。平和学習による見学も行われています。

 

#Wikipediaより 慰霊の日、魂魄の塔で手を合わせる人々(2004年6月23日)
何より、正しい方向に向かってこの日本が発展していくことを切に願います。